最近また小説を書き始めたのですが、ふと昨日「もしかしてこれ、世に出すことになるんだろうか..」という思いを感じていました。
というのも、ストーリーの随所に「自分とつながるってどういうことなのか?」を表現する箇所が出てきていて、もちろんわたしの魂は、かつて自分とつながる生き方をしていた過去生の記憶を掘り起こすために書いているんでしょうが、同時に、これって、みんなにも思い出してもらいたい感覚なのかな、と感じたのですよね。
その時が来たら、世に出すことになるのかもしれません。
創作はわたしにとって「書く」ことが目的となるもので、「出す」ことは目的になったことがないので、第三者に公表したことはありません。大学の課題で形式自由のレポートがあった時に、一度書いたきりですね。
たぶんそれが、自分とつながりやすい理由なんだと思います。
このブログもそうですが、公表することは他者との交流が生まれる一方、他者目線が入りやすいという難点もあります。ズレやすいのです。
漫画家さんが自分の描きたいものを書いていたはずなのに、途中から読者の期待に応える展開にズレてしまい、自分とつながりにくくなってしまう、みたいな。
あるいはただ好きで楽しんでいたスポーツや音楽が、他者から評価されるようになった途端、表彰台が目的になってしまう、みたいな。
もちろん、他者に評価される喜びというのは確かに存在し、人は誰しも周囲の役に立ちたい、何らかの形で貢献したいと感じるものです。
でも本来それは、植物でいう花にあたるような成熟した喜びであり(お料理でいうところの盛り付け)、その根っこ、根幹には、いつも自分とつながる純粋な喜びが存在している。それが、いつも自分を見失わないポイントなのだと思います。
先日本屋さんで、ふと、作家の浅見帆帆子さんの本を手に取る機会がありまして「ああそうか」と、自分からのメッセージを受け取りました。
浅見さんは、もう何年も、自分の日記を出版されているのですよね。
手にとって読んでみると本当に毎日の日記で、個人的な日記がそのまま本として読者に公表されているのです。
でも読者からすると、その人の頭の中がそのまま手に取るようにわかるわけで、これはこれで1つの気づき形であり、教養なのだな、と感じました。
自分本位の著作物の素晴らしさは、押し付けがましくないこと。
日々の自分自身に対する気づきがそのまま素直に書かれていて(決して読者のための指南ではない)、読み手はその中から自分の共感した部分、取り入れたいと感じた部分だけを真似ることができるのです。
私が以前講座を主宰していて感じたことは、講座の価値(そこから何を受け取るか)というのは、いつも受講生当人が決めているということでした。それは、こちらが届けたい価値と必ずしも同じであるとは限らないのです。(形のないものを売っているケースであれば尚更)
でも、それはとても自然なことで、その人が今、何を一番求めていて、何を一番受け取りたいのか、というのは、本当はその人本人にしか決められないことなんですよね。
もっといえば、ご本人も顕在意識では自覚がなくて、でも潜在的に「ここに答がある」と知っていたから講座に惹かれたというケースもあったと思います。
そして、自分が一番受け取りたいものを受け取った時、そして、ああ自分はこれを求めていたのか、と自覚できた時、人はそこに価値を感じるものなのかな、と思うのです。
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