世界の中心はわたし

わたしは普段、 あまり怒りません。
 
昔はしょっちゅうイライラしていたように思いますが、それは自分で自分自身を抑圧していたからだと感じています。(感情は抑圧すると怒りに変化します)
 
自己統合をすすめるようになってからは、怒りが湧き上がってくることは少なく、たまに怒ると「今日は新鮮な体験をしたな!」と感じるようになりました。
 
ここ数日、人からさんざん罵倒される現実を体験し、久しぶりに怒りを感じることがありました。

そしてその時、自分でも自覚できていなかった怒りが出てくるのを感じて、ふと思ったのです。

「ああ、わたしって、ここまでされないと怒れない人だったんだな」って。
 
わたしたちは、捉えることのできた感情しか手放すことができません。
つまり、怒ることができない内は、怒りを手放せないということ。
 
「喜怒哀楽」という言葉に象徴されるように、怒りは本来自然な感情の1つです。
扱い方を工夫する必要はありますが、怒りを感じること自体は、わたしたち生来の感性が正常に機能している証拠でもあります。
 
ところが、どうもわたしは基本スペックの1つに「我慢強さ」というのがあるみたいで、ところどころ感受性が麻痺しているようなのです。
 
たとえば、お金の問題を体験した時に感じたことは「わたしって、ここまで追いつめられないと、助けを求められない人だったんだ」ということ。

最初から何も我慢していなければ、誰も自分を解放するために特別な現実は必要ないと思うのですが、人間というのは、自分でもなかなか、何を我慢しているのかわからないようなのです。
 
現実は、出来事だけ見ると時にいたたまれない時もありますが、そういう見方をすると本当によくできている、というかやっぱり自分で起こしていますよね。
心の深い部分では、誰もがセルフ劇場です。
 
今回気付かされたことは、「世界の中心はわたし」ということを、わたしは間違いなく忘れていたということ。
周囲との調和を重んじるあまり、どこかで周りに合わせていた(意識が外向きだった)ことに気づかされました。

その自分軸のズレがつくった空間の歪み、エネルギー的なバグが他者に不可解な行動を起こさせていたようなのです。
 
ということで、意識の内で設定し直しました。

世界の中心はわたし。

わたしの世界において、わたしという存在、わたしという生き方に意見することは何人たりにもゆるされない。

わたしという意識が他者に迎合しなければ、本来それはゆるされない(起こって来ない)ことなのだ。
 
と。
(自分がゆるしたことしか起きて来ないわけだから)
 
そしたら、問題はあっさり解決しました。

水のエレメントは確かに他者とわかりあえることを求めている。

でも、それは心の交流であって、誰かに価値観を押し付けられることを望んでいるわけじゃないんだよね。
ただ、わたしが心を開いてわたしそのものである時、水のエレメントがあふれて、自然と周りの人が心を開きやすくなる(=交流が起こってくる)というだけで。

ということで、意識の内で宣言もしておきました。

我に意見する必要はない
誰もそれを求めてはおらぬ

と。

そういえば、罵倒ゲームの最中に「偉そうだ」っていわれちゃったんですけど、仕方がありませんね。わたしは月星座獅子座。生まれながらの王者なのです。

そして、そのことをどこかで否定していなければ、こんな罵倒ゲームを起こすこともなかったと思うと、まったく凝りませんな〜と感じます。