海の贈り物

海の贈り物とは、祝福のこと。
 
多様な命を育む海の世界には、あるがままを喜ぶエネルギーが満ちている。美しい生き物と醜い生き物、良い生き物と悪い生き物はそこには存在しない。
海は、自分の内で育まれた命が生まれたままの形で存在することを喜んでいる。そう、祝福しかしていないのだ。
 
大変革期の今、地球は、海は何を思っているんだろうと思ったけど、もしかしたら何も思っていないのかもしれない。それらは命のそのもので、ただ今を喜んでいる。そこには喜びしかなく、人間だけが何かを思考をしているのかもしれない。
 
そう感じてみた時、これが海の意識なのかもしれないと感じた。その意識はこういっているかのようだ。何が起きても、ただ今を喜べばいいではないか、と。

水のエレメントは、どんな空間にもなじむ力を持っている。なぜなら何も否定しないからだ。
わたしは時々、そのことを思い出すために日本に帰ってきたのでは?と思うことがあった。全てはあるがままでいいではないか、とわたしの内なる水は常々云っているのだ。問題はそれを許せるかどうかなのだろう。

水族館の帰り、なんとなく周遊したお土産屋さんで、透明標本の絵葉書を買った。
ポストカードを見た瞬間「ああ、そういうことか」と思っている自分がいた。

透明標本とは、特殊な染液によって生き物のあるがままの骨格をうかびあがらせたものらしい。普段は肉や内臓によって見えない骨格が "あるがまま" に浮かび上がっている。

わたしたちも、エネルギー(波動)の世界においては、たぶんこんな感じなのだ。
見た目をどんなに取り繕おうと、見えないエネルギーの世界では、その下のあるがままの姿(思い)が筒抜けだ。それしか見えないし、現実には映らない。
笑顔の裏の涙。気丈の裏の孤独。エネルギーはそれすらもきれいに写し取り、現実に転写してくれる。
 
それならもう、あるがままでいいのではないだろうか。
わたしの全ては見えないところで筒抜けなのであれば、取り繕うだけ骨が折れるというものだ。何かを隠そうとする必要もないし、恥じる必要もない。「美しさも醜さも、魂にはお前のあるがままの姿がよく見えている」と云われているかのようだった。

それならこれからは、一番恥ずかしい私で一番カッコよく生きよう。そして、一番醜い私で一番美しく生きようではないか、と思った。存在の一面性をなくすことはできないが、それを誇りに思い、受けとめてあげることはできる。
全て筒抜けならば、もう何も隠すことはない。全てを日の下に晒し、堂々とそれを生きればいいではないか。

わたしという存在の多様さを受け入れ、祝福せよ。
海の贈り物(=水のエレメントの力)とは、内なる魂の海の祝福を思い出すこと、つまり「許し」のことだったのだろう。