贈り物を受け取るには

区役所に行ってきました。

税金のこともそうですが、これまでわたしは公的手続きをけっこう面倒だな〜と思っている節がありました。既得権益や既存社会の決まりごとに対して不信感や反発心というものが強く残っていて(ザ・条件付け8の人)、それゆえそうしたものをできるだけ遠ざけようとしていたのだと思います。
 
しかしある時こんな気づきを受けとり、本当にその通りだな〜と感じるようになったのですね。

嫌いなことは好きなこと
好きなことは嫌いなこと

どちらも対象に意識がとらわれている(執着している)状態
手を放し、ありのままに対象を愛せるようになるまで自由にはなれない
 
自由になれない、というのは、物事の捉え方にフィルターがかかってしまいやすい、ということです。

例えば、以前ドイツで起業支援金を申請した時は、直前まで申請すべきかどうか迷っていたように思います。思ったことは本当に現実になる、と気づき始めた頃で、支援金を申請することが、何か支援金なしではやっていけない自分を申請することのように感じていたのだと思います。

しかし、フィルターを外してみれば、本来公的な支援金というものはそれにふさわしい人に使ってもらうために存在しているわけですから、支援金を受け取ることで、もしもそのことに感謝できると思うのであれば、申請すればいいのです。

日本に戻ってきてからは、そうしたことを意識するようになったからか、海外に転出していたことで受け取ることのできる様々な恩恵があることに気づかされました。以前のわたしであれば、気づかずにスルーしていたかもしれません。
公的機関や権威への反発心が残っていると、無意識に全て自分でなんとかしようとしてしまい、その意識が本来恩恵にあずかれる制度まで見えなくしてしまうのかもしれません。
(そうした意味で、必要な人に必要な制度が届くかどうか?、というのは、当人の意識の準備(受け取ろうとしているかどうか)も大きいのかもしれません)
   
今のわたしは何か選択に迷った時「どちらを選んでも素晴らしい展開が待っているとしたら、どちらが良い?」という質問をよく自分自身にします。

この問いには意識をフィルターの外に押し戻すはたらきがあるようです。
予め両方の選択肢を祝福しておくことで、そうした展開を想像=創造しやすくするだけでなく、個人意識に根強く残った「より良い方を選ぼう!」という力みの背後にある「正解は1つだけ」「どちらか一方しか上手くいかない」といった思い込みを和らげてくれるからです。(緑の部分がゲーム設定)
 
愛することは、対象に対して心を開くこと。
何かを愛している時、わたしたちは、そこから受けとれる沢山の恩恵に気づかされます。

これまでわたしは、会社員だった頃は不自由さ(時間的制約や立場的制約)を愛していませんでしたし、独立してからは不安定さ(経済的不安定さ)をどこかで否定していました。
 
実際には、それらは全てわたしの意識が否定によって創造したものであり、だからこそわたしに受け入れてもらう(=愛してもらってふたたび1つとなる)ために出てきてくれていたのですが、当時はまあ、わかりませんでしたね(笑)。
(結局、自分と別れて出てくるものは、全て自分から分離したものなのです)
反発することでかえって対象の力を強めていたように思います。

しかしもし、この世界で起こってくる制限を楽しみ、愛することによってふたたびそれと1つになれた暁には、わたしたちの意識は、おそらくそれを軽々と飛び越えていくのではないでしょうか。

追伸1
世の中に『愛』と『そうでないもの』があるのではなく、愛ある意識が、対象から愛を引き出すんだそうです。

追伸2
今朝ブログを書いたら届いたもの