誰もが自分のために

日本のお年寄りの中には、年を重ねて、誰かに面倒を見てもらわないと生活がままならない方もいらっしゃいますよね。

先日ふと、あれは「長年自分が誰かの面倒を見て生きてきたから」なのかな、と感じたことがありました。
 
ずっと人の面倒を見て生きていると、私たちの意識はどうしてもそちら側の役に固定化されてしまいますが、魂は本来中庸ですから、本当は必要に応じて「面倒を見る役」も「面倒を見られる役」も演じることができる存在です。

自分は「面倒をみる側」の人間である、と思っていると、役にはまり込むあまりそのことを忘れてしまい、そこでその魂の可能性は限定されてしまいます。
ですから、今度は自分が「面倒を見てもらう側」を体験することで、無意識にバランスを取り戻そうとしているのではないかな?と感じたのですね。
(そうして真っさらな状態になってから魂は旅立ってゆく)
 
皆さんの身近に、介護や人のサポートを必要とされている方がいらっしゃるとしたら思い返してみていただきたいのですが、その方は昔、自分以上に、他の誰かの面倒を見て生きていらっしゃいませんでしたか?
 
現代社会は誰もが誰かのために生きることを無意識に要求されています。
もちろん、それもわたしたちの魂にとっては1つの体験したかったことなのだと思いますが、何事も行き過ぎるとバランスを取り戻すための体験が必要になります。
 
みんなが少しずつバランスを取り戻しながら、誰もが自分のために生きられる社会になるといいなぁ、と思うこの頃です。