夢の正体

わたしは早稲田大学出身で、早稲田はもともとあまり興味のなかった大学でした。

早稲田で学びたいと思ったきっかけは、なんとなく参加したオープンキャンパスでした。
3人の在校生の主宰するキャンパスツアーで、一番最後に校歌の大合唱がありました。

人通りの多い校門前で、大勢のキャンパスツアー参加者たち(年齢層はバラバラ)に向けて、人目をはばかることなくたった3人で大合唱するその姿を見て(しかも別に上手いわけではない)、びっくりすると同時に「いや、誰もそこまで頼んでない..」と一瞬恥ずかしくなった記憶があります。


しかも1番から3番まで熱唱されて、(キャンパスツアーは)歌が終わるまで解散にならない。。

他人のフリができないじゃないか。。(汗)


でも、学生たちの歌を聞いている内に、とにかく母校がものすごく大好きなことは伝わりました。そして、彼らはわたしと違ってとても楽しそうでした。

思ったことは2つありました。

1つは、自分の好きなものを、こんな風に人前で堂々と好きといえるのは、幸せなことなんだろうな、ということ。

もう1つは、わたしもこのくらいバカになれるくらい、好きなものに夢中になれる人生を歩んでみたい、でした。


人目が気にならなくなるくらい好きなものに出会って、バカになりたい。


そう、わたしは、バカになるために、早稲田に入りたいと思ったんです。


大学って普通は勉強するところでしょ?

勉強するだけだったら、バカにはなれないじゃないですか。

でも、ああ、バカだな...😓、と思うくらい好きなことに夢中になっている学生がいる所なら、それができるんじゃないかと。


もちろん勉強はできてもいい。便利な所もあるからね。

でも、勉強ができても、たぶんわたしは幸せにはなれない。


そうことが、当時のわたしには直感的にわかっていました。

本当に幸せになりたいなら、本気でバカになることを学ばなくちゃ、と。



この目論見は大成功だったように思います。
在学中も、大学卒業後も、その後の人生は沢山の夢を叶える人生になりました。

でもね

・オーケストラでチェロを弾いてみたいという夢を叶えたから
・いつかドイツで働きたいという夢を叶えたから
・本当にやりたいことを仕事にできるようになったから

幸せだったんじゃないんですよね。
それは表向きの夢だったから。
 
本当は、自分が自分の本当に生きたいようにように生きられるようになったこと、が幸せだったのです。

つまり、自分の好きなことや、やりたいことのために、バカになれるくらい夢中になれたことが、本当の喜びだったのだと思います。

表向きの夢(=具体的な目標)はいつも、裏の夢(=真に望む生き方)ができるようになった結果実現する形だったりする。

夢の実現を通して、本当の自分の生き方を思い出す。

人生ってそういうものなのかな、と思います。






メンテナンス

手持ちのチェロをメンテナンスに出そうと思います。
壊れているわけではないのですが、楽器のためのマッサージですね。

その時ふと思ったのですが『わたし』という楽器もメンテナンスのかかる時期のようです。

現実で起きていることは、いつも内面で起きていることだと、以前内なる自分からいわれていましたっけ。

弦楽器は4本の弦の内、1本の弦の音を調律すると、隣の弦の音も変わってしまいます。

弦の音の高さは弦の長さで決まるのですが、4つの弦はいずれもテールピースと呼ばれる同じ部品で長さを調整しているので、1つの弦をより強く張ると、テールピースがそちらに引っ張られ、他の弦の長さも変わってしまうのだと思います。

つまり、1本の弦を調律した後は、他の弦も改めて調律し直す必要があるということです。
(仮に先に調弦されていたしても音が変わっていたりするから)

てっきり4本の弦はそれぞれ独立していると思っていたわたしは、昔チェロの先生に「それは当然のことですよ」と云われてとてもびっくりした記憶があります。

全てはバランスで成り立っており、影響し合っているので、1つの弦の調子が変わると、他の弦の調子も変わってしまうのですね。

隣の調子が狂っている時は、自分の調子がもともと合っていたとしても、改めて調整し直す必要がある。より大きなハーモニーを奏でるために。

わたしたちもそうなのだと思います。

おはようございます🌟

本日、こちらの並木さんのワークショップにオンライン参加させていただきました。

並木さんのWSに参加させていただくのは実は2回目で、むかし昔、まだドイツに住んでいて独立したての頃、一度だけ日本帰国中に参加させてもらったことがありました。

当時は独立したものの一般的なビジネスセミナーの手法がどうしても合わず、かといって仕事に活かせるほどのチャネリング能力(自分とつながる力)も芽生えていなかった、暗中模索の時期だったように思います。

今日のワークショップでワークをしていたら、本当の自分の記憶が色々蘇ってきました。

わたしはキャリアカウンセラーとしての活動を終了してから、ごくフツーの会社員をやっておりまして、目覚めのセミナーからもしばらく遠ざかっていたのですが(かわりに簿記講座の抽選に応募したりしていた)、昨年の冬至前から、再び目覚めに心惹かれる時期がやってきたのでした。

どうも、フツーの会社員をやりきる必要があったようです。
(やりきってなかったんかい!)

そして明かされた『他力を頼る』の本当の意味。。

(わたしはまだこの時就職した会社で派遣社員をやっています)

他力とは、本当は自力のことだったのです。

他人を映し出しているのも自分だからです。

他力を頼るとは、まさにここに書かれていた通り『天に委ねることを思い出す』ことでした。
自分の意図をあげて、それが他者によって運ばれて形となることを信頼すること。
本当の自分のつくり出す大いなる流れを信頼するということです。

今日のワークショップでは「高次の存在に自分の人生に介入してもらうよう助けを求める」というお話があったのですが、それを聞いて思わず「いや、介入してもらってまで叶えたい夢とかないしな..」抵抗を感じてしまった自分がいました。

で、思ったんですよね。

いや待て、高次の存在っていっても結局は自分だよね。

全て自分で映し出しているんだから。

そもそも本当の自分には、助けを求めたんだっけ?わたし。

・・・・

・・・・

求めた記憶なし(笑)

そもそも介入頼んでなかった...

ノーオーダー(笑)

新しい絵本、注文してなかったよ(笑)

自分で創った現実だし、自分でなんとかするかな、と思っていた気がする。
(どんだけ苦労人根性...)

いやいや、自分で創った現実なんだし

本当の自分になんとかしてもらうよう、まずはオーダーしてみろ?

そういえばわたし日本に戻ってきてから、あまりチャネリングできなくなったのですが

介入求めていなければ、情報も降りて来ないか。笑

自分でなんとかする気が強すぎて、そもそもこうなってほしいとか、意図をあげていなかった気がする。。

なんとかするか🔥>こうなってほしい🌟

我ながら男前である。

そうそうわたし、意識の左側の回路がズレてるように感じるのですが、どこかの人生で、望みをあげる回路(左側の第3チャクラ)を意図的にズラしてしまったみたいなんですよね。

ズレてないと、苦労できないから。

その時わたしは、どうも苦労という体験をしてみたかったようなのです。



意図をもって愛される

点と点が線になり、やがて面になる。

生きていると何度かそういう瞬間に遭遇しますが、自分の学びは「意図をもって愛されること」「そのままの自分で愛され、受け入れられる体験をすること」だったのかな、と感じることがあります。

言葉にしてしまうと簡単ですが、わたしのどこかに「そのままの自分では愛されない」「周りに受け入れてもらえない」という思いがずーっとあったようなのですよね。

なので現実でも、ちゃんとそういう「社会と自分の思いは相入れない」という展開を創造しています。

それでもこの頃はまだチャネリングできていたのは、自分は自分の思いを肯定できていたから。

自分の感じ方や感性を深く受け入れ、心から自分自身の感性にYESを出せるようになると、人は意識の最奥にあった思いの扉を自然と開けられるようになります。
これが「忘れていた本音を思い出す体験」であったり「チャネリング」と呼ばれる体験。
末端の意識が活性化されることで、意識の奥にあった情報を引っ張ってくることができるようになるのです。

自分と社会は相入れない。
そんなスタート地点から、どちらに舵を切るべきか迷い、やがて、自分と相入れない社会すらも受け入れることを覚え、それもやはり自分自身の一部なのだと感じるようになってからは、わたしも社会の中で新しい居場所を見つけ...

最後に、そんな社会(=自分と相入れない社会)ですらも、全て自分自身の投影だったのだ、と気づく。自分自身の内側に「そのままの自分では愛されない」「周りに受け入れてもらえない」という思いが根深くあって、それが社会に映っていただけなのだと気がつく...
 
そんな流れでここ1〜2年の人生は過ぎていったように思います。

また、会社の中で働くようになってから、誰かに愛されそうになったり、周りに受け入れてもらえるようになると、無意識に相手の、周りの人たちの望んでいる自分を演じてしまう自分がいることにも気がつきました。
相手に、合わせにいってしまうのです。

そのままの自分では愛されないのだとしたら、本当の自分を生きれば周りとは相入れず、周りに愛されるためには本当の自分を偽らなくてはならない、無意識にそんな現実を創造しつづけることになります。

それをやっと外せる。
これからは、意図をもって愛される。
わたしのままで愛されることを、わたしに許容する時が来たのだと思います。