『星屑の叡智』を「天とつながって星の声を聴け」と訳したわたしですが、実は自分の外にある宇宙に意識を向けても、星の声が聴けるわけではありません。
流れ星の星音が聞こえたり、天文学や今日の星空にちょっと詳しくなったり、プラネタリウムに通ったり、ということはあるかもしれませんが。
『星屑の叡智』は、魂の声を聴く生き方をうたっています。
そして、ここで意識をつなぐのは外の宇宙ではなく、自分の内なる宇宙(宇宙意識)のことなのです。
しかし、自分の宇宙意識とつながることで、魂の叡智が理解できるようになることを、なぜかわたしは最初から知っていたようです。それはある時自然と始まっていました。
この4節は、魂の声にしたがって自分の道を歩み始めると、自然と思い出される力のことを語っているのかもしれません。
星屑の叡智 森のささやき 魂の新章
ブログ『星屑の叡智 森のささやき』が始まった当初、このタイトルには何か続きがあるように感じていました。
「星屑の叡智 森のささやき...ん〜?あれ?なんか終わらないな。星屑の叡智 森のささやき 魂の声?」
「終わらないな」というのは、言葉に意識を合わせてその音を丁寧に感じとってみると、その余韻は何かその先を語りたがっているようにみえる、というのでしょうか。
『星屑の叡智 森のささやき』という言葉には、なにか隠された続きがあるように感じていたのでした。
ブログをリリースする段になっても結局それはわからずじまいで、当時は「まあいいか」とそのままリリースしてしまったのですが、後になってこの2フレーズは「天と地とつながる力」を象徴していることに気がつきました。
天とつながり星の声を聴き、地とつながり森の声を聴け、と。
イニシエーションを終えた昨日、水族館に行ってきました。
そこで美しい水の中の世界を見て「ああそうか、海。海ってこんな感覚なのかもしれないな〜」と、海の意識に思いをはせていたところ、ちょっと見えてきたことがあったのですね。
たぶんこの詩(魂のうた)は
星屑の叡智
森のささやき
?????
海の贈り物
の4節になっている、と。
3節目に何が入るのかはわかりません。そこ、まだ意識に霧がかかっているんですよね。でも4節目は『海』な気がするんです。
なぜかって?
それはたぶんこの詩(うた)が
星くずの叡智(起=火のエレメント)
森のささやき(承=地のエレメント)
??????(転=風のエレメント)
海のおくり物(結=水のエレメント)
になっているから。
伝わりますかね?
天とつながり星の声を聞き、地とつながり森の声を聞け。〇と結ばれて〇〇の声を聴き、水と1つになって海の声を聴け。そう云っているのです、この歌は。
これがわたしの魂、本来の生き方なのだと思います。
話は変わりますが、イニシエーションを無事にクリアした後、再びまたドイツに戻るのか?といわれれば、少し違うような気もしていました。
わたし、ここでやりたいことがあることを思い出したのです。
それはですね...
オーケストラをつくりたい
クラウドファウンディングの時、学生オーケストラ時代の仲間が何人かカウンセリングを受けてくださったことがきっかけでした。
そこで気づかされたことは「みんな以前は、音楽を通して知らぬ間に自分と対話していた」「音楽って、誰にとっても自分とつながる道になりうるんだ」ということでした。自分とつながっていた感覚を思い出すために、誰もがカウンセリングを受ける必要はないのかもしれない、と感じたきっかけでした。
音楽を通して自分とつながり、音楽を通して自分と対話する。もしもそんなオーケストラが生まれたとしたら、そこでは一体どんな音が起こってくるのか。
実はこのオーケストラには名前もあって、その名も
森のオーケストラ
どうも、森の中で演奏するみたいなのです。(そういうビジョンをず〜っと受けとっていました)
そこで初めて気がついたのです。
たぶん、これが新章だ、と。
『星屑の叡智 森のささやき』をうたっておきながら、これまでこのブログでは「森のささやき」の話はほとんどしてきませんでした。宇宙意識の叡智ばかりを語ってきた。それは、これまでの人生が『第一章 星屑の叡智』の章だったから。そして次の章は『第二章 森のささやき』。
(とはいえ、それだけをやるって感じてもなさそうで、先の展開はわかりません。
『全てのものは歌を歌っている』と云ってるくらいですから、チャネリングできる言葉の範囲が広がっていくのかもしれませんね)
『星屑の叡智』の4つの詩には、魂がわたしのために描いてきた4つの人生のテーマが隠されているのかもしれません。時期が来れば「何を学びにここに来たのか?」自ずと思い出すよう仕組まれた、パスコードのようなものですね。
このジグソーパズル解読の旅は、まだまだつづきそうです。
進化のためのイニシエーション
日常生活のあらゆることを、自分とつながる『扉』として使い始める。
何をやっていても、瞬間、瞬間の選択を通して自分とつながる。
そのことを今日、やっと思い出しはじめました。
いや〜、すっかり忘れていました。(笑)
「ステージが変わって全く違う環境におかれると、一度学んだことも完全に抜け落ちてしまうんだな〜。全然自分とつながれなかったもんね」なんて今日、コンビニの仕事を終えて思っていたら、どうも「そういうことじゃない」というメッセージが降りてきました。
ステージは変わっていない。6月30日までは同じ意識ステージだった。
じゃあ、昨年9月からのこの激動の流れは何だったの?(現に外的環境はさっぱり変わってしまったじゃない?)と、いいますと...
.....
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テストだったらしい😎
昨年8月にこれまでのカリキュラムを無事に終え(そういえば、講座の時いつもメッセージを降ろしてくれた土星先生がいなくなったような)魂の学びを修めた(=予定していた体験を通して自分とつながることを思い出し始めた)わたしは「それでは、最終テストと行こう😎」ということになり、その舞台に選ばれたのは日本。
なぜなら、テストの内容は
これまでの学びを一度全て忘れて、もう一度、自分とつながることを思い出すレッスンだったから。
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タロットカード『塔』のカードには、これまで積み上げてきたものを根本から破壊することで意識体として進化するという意味があります。
はい、ここまでよく学びを深め、魂の叡智を思い出しました。
じゃあこの塔(=これまでの体験から得た知識と能力)は一度根こそぎかっさらって、またゼロから同じレベルまで(同じ意識水準まで)到達できるかテストしてみよう。
全くキャスティングを変えて、舞台は日本ね〜。
周囲の人間関係も、自分を取り囲む価値観もガラッと変わり、自分とつながることが著しく阻害されるこの環境で、もう一度自分が何者であるかを思い出し、同じ意識水準まで到達できたら、合格だ。
次のステージに進むことを許可しよう。
.....
.....
マジ??
と、いいたい自我(エゴ)ですが、正直、何も言い返せない。
魂の叡智というのは、大脳で持ち歩く記憶(=知識)ではありません。
覚えるものじゃなく、自分自身の内側にアクセスして直感的に思い出す(=引き出す)ものなのです。だから、学校でやっているようなテストでは、確かにテストにならない。
実際に自分軸(自分とつながる意識の力)をテストするには、簡単には自分とつながれない環境に放り込み『もう一度やってみなさい』と、体験させるのが一番。
意識体は、三次元の記憶と五次元の情報がごっちゃになって、混乱します。
全く違う意識ステージに落とされた環境から、本当の自分自身を見失うことなく、また再び同じステージまで戻ってこられるか?これはそういうテストだったのです。
ああ、そういえば、著書『イニシエーション』で筆者が同じようなテストを受けていたことを思い出しました。
この本に描かれていたイニシエーション(テスト)は、もっと壮絶な体験だったように思います。
もしかしたら、今、同じような通過儀礼を受けている魂が多く存在するのかもしれませんね。✨
全く違う環境で、ゼロから再び自分とつながる力を思い出す。
そんな時鍵となるのは
自分を信じる力。
何が本当の自分で、何がエゴなのか。試される、自分とつながる力。
会いたい人
会いたい人というのは、今の自分自身に足りないエネルギーを教えてくれる人。
人は誰しも、その人固有のエネルギー、魂の放射(バイブレーション)を放っている。
それは、なんとなくこの人といると「癒されるな〜」とか「明るくなれるな〜」とか、そういうもの。
(わたしは「火・風・土・水」どのエネルギーが表に出ているか?で感じることが多い)
エネルギーはバランスなので、目の前の日常に追われ本来のバランスからずれていると、そのズレを補正すべく人の内側にはエネルギー的な志向=嗜好が生まれる。
それを否定することなく迎え入れ、意識的に昇華していくことで、その根っこにあった本質的なエネルギー志向に気づかされる。
エネルギーバランスが全て整ってしまうと、ほしいものは自然となくなっていく。
「〇〇したい」「ほしい」という体験が、稀有なものになっていくということだ。
そうした意味でも、やりたいことがあることは幸せなことであり、好きなことがあるのは幸せなことだ。
人生は、楽しむためにつくられていることに気がつく。
楽しめば楽しむほど、魂は成長する(目醒めていく)仕組みになっているのだ。
開かれた扉
こちらに戻ってきてから、周囲の人を見ていて何度か感じたことがありました。
「この人、人の話を全然聴いていない」
相手の話を理解しようとせず、一方的に自分の見解をまくしたてているように見える。
どうも怯えすぎて(自分の意見を相手に理解してもらいたい、まるごと受け入れて同意してもらいたい、という気持ちが強すぎて)、それと違う意見は聞きたくないように見える。
これは、何を話しても理解してもらうのは難しそうだ。
そんなことが何度かありました。
周囲の人にはいつも自分のシャドウ、つまり自分でも気づいていない自分自身が映っているので
「もしかしてわたし、人の話を全然聴いていないのかしら?」
「相手を理解しようとしていないのかしら?」
と思ったのですが、どうもなんだかピンときません。
ところが今日やっとわかりました。
「わたし、本当の自分の話を全然聴いていなかったんだわ」
そりゃあ自分の声が聴こえないはずだわ。
これまで自分の声を聴いて人生を歩んできたわたしは、ある意味途中から、完全に自分の声に導かれる人生になって、自分とつながっている状態、いつも本当の自分の声が届き、魂の意図を理解している状態がスタンダートになっていました。
そのことに完全に油断していました。
以前のステージは、もう終わったのですよね。
日本に戻ってきて自分とつながれない、自分の声がよくわからなくなったのは、より高次の意識とつながるようになって、これまでより、より深く精妙で繊細な声を聴く力が求められていたから。
それを受けとり理解するだけの感受性が、まだわたしには十分に育っていなかったのです。(器が整っていなかったともいえる)
おかしいな、と思っていました。
だってこれまでも何度か日本には戻ってきていて、その時は、いま振り返ると自己一致が荒かったな、と感じる部分はあれど、その時なりに一致していた=自分の選択に迷いはなかったからです。
環境が変わったことが原因で、自分の声が聴こえなくなったわけではなかったのですね。もしかしたら、外界の影響によって自分自身がどうにかなる、ということは本当はないのかもしれません。
(外界からの影響すらも意識の見ている夢であるということ)
自分の声を聴くレッスンをやってきたはずなのに、完全に過去にとらわれ、油断していました。自分の声を見失ってしまったこの半年間、振り返ってみると、まるでラピュタに出てくる竜の巣にいたように感じています。
もっと心を開いて、わたしたちの贈り物を受けとってください。
そんなメッセージとともに、扉が開かれるビジョンを受けとりました。開かれた扉の先には、真っ白い階段がのびていた。
贈り物とは(Present=今この瞬間)のこと。
今という瞬間に対して心を開き、心からそれを受けとめたら、次にすべきことが降りてくる(見える、わかる)。それを忠実に受けとめ実行すれば、また次のビジョン(次にやるべきこと)が降りてくる。
こうして次元上昇の階段は開かれる。
そうそう、そうでしたね。この新しい次元にプロセスはないのです。まるで毎瞬、毎瞬、瞬間をジャンプしているような状態。
今こうで、今こうで、今こう。みたいな。
忘れてたわ〜。
道を見失ってしまう時は、意識が外向きになっている時。
もう一度、意識のサーチライトを自分の内側に向け直す時なのです。
だって、本当の道は目には見えないんだから☆
ということで、ビックたまカンパニーの冒険〜日本編は、これにて一度幕を閉じたいと思います。Fin.という言葉が見えたから。
日本でのわたしのあれこれを見守ってくださり、本当にありがとうございました。
ブログはまた書くことになるかもしれませんが、とりあえずここは、一度さよならを。
というのも、よく小説や物語の終わりに「この後、〇〇はこういう冒険をすることになるのであるが、それはまた別の物語、別の時代のお話である」というフィナーレがあるじゃないですか?
なんか今、そんな感じみたいなんですよね。
次回はどんな冒険が待っていることやら。
それでは、またお目にかかる日まで、しばし?のお別れです☆
自分からのメッセージ
今年の3月、地元のコンビニエンスストアで働き始めた頃から
『6月』
やたらとそんなメッセージが降りて来ていた。
当時まだ日本で就職活動をしていたわたしは「え?6月?そんなにかかるの?仕事が決まるまで」というがっかり半分でそのメッセージを受けとっていた。
何が起こるのかは降りてこなかった。ドイツを離れる時「現実はきっと良くなる」という期待を手放したわたしとしては、それでいいと思っていた。
とりあえず今を楽しもう。
そして今朝
「29日か。結局何も起きなかったな」
そう思いながら身支度をして、ふと「いや、待て」と思った。
これまで直感が外れたことは一度だってあったか?
結局あれはなんだったんだろう、何も起きなかったな、という時は、大概自分が起こりつつあることに気がついていない時だったじゃないか。
バベルの塔のメッセージの符合体験は「直感に勘違いはなく、直感が符合しない時こそどこかで見落としや勘違いを起こしている」という理解をわたしにもたらしていた。疑いは意識の精度を鈍らせる。
6月に何が起こる?
もう一度内観してみて気がついたこと。それは「このフィルムから出られる」ということだった。
わたしは良きであれ悪しきであれ現実が変わることを想定していた。
それがそもそもの勘違いであり、そんな意識では気づけないはずだ。現実は意識より先には変わらない。6月に何が起こる?わたしの意識が変わるということだ。
途端に、ドイツにいた頃何度か「ああ、今わたしは、こういう夢を見ているんだ」と気づいてフィルムの外に出た経験、そうやって何度か現実があっさりと変わっていった体験を思い出していた。
ブログには書いていない。なぜかその気になれなかった。
魂の目的は現実を変えることではなく、本当の自分をはっきりと思い出すことだった。書こうとするとズレた。いずれ慣れて来たら今起きてることの本質を理解できるだろうと思っていたら、ある時急に現実は変わらなくなり、急転直下で日本に戻って来たのだ。
この半年間クリアリングする感情の多くは、過去生からの繰越感情が多くなっていた。タロットカード10番「運命の輪」という言葉によく出会う。魂の大きなサイクルが終わる。そういう時らしい。
蟹座新月前夜の昨日、新しいエネルギーが降りて来て、左の股関節がひどく痛んだ。また新しいブロックを外そうとしている、何のチャクラと関係しているのかしら?と思ったところ、こんな情報に導かれた。
第2チャクラと股関節の痛みからのメッセージ。 | カラダから"本来の心"を目覚めさせるスピリチュアルヨガセラピスト 大野まさみ
まさに、という感じである。
意識が硬くなると体も硬くなる、ということを最近よく感じていた。
音楽やスポーツ、バレエなどの世界では、プロを目指すなら小さい頃に始めた方が断然有利といわれている。それは誰しも子供のうちは意識が柔らかい=体も柔らかいからであり、成長とともに自分に課すルールがふえるほど、意識と体は硬くなってしまうからだ。
「自分の好きなことをすると周りに迷惑がかかってしまう」
この思い込み、わたしも該当しているのではなかろうか。
最初はそうは思えなかった。そもそもそんな風に思っていたらここまでわたしは違う風に生きていただろう。
しかし、よくよく観じてみると全てが符合するではないか。
日本に戻って来たのはお金を借りることで家族に迷惑をかけたからである。
そして「人に迷惑をかけない範囲であれば何をやってもオーケー」は我が家の家訓だ。(以前はもっと厳しかったのだが、今世わたしが片っ端から突破して幸せになってしまったので、その意識を反映してそうなった)
最後に、ドイツにいた頃過去生の記憶をめぐる旅をしていたことを思い出した。
最後に降りて来た一番古い記憶は、ある部族の予言者の過去生だった。幼いわたし(もちろん今の私ではないが)を導きトレーニングしてくれた師匠に「この力を絶対に悪用しない」と誓っていた。
しかし、予言者とは当時の社会において特別な役職であり、その時代の魂はまだ人間的な激しい感情の扱いに慣れていなかった。孤独にたえかね、その人生ではあるタブーを犯してしまい、罪の意識に耐えきれず衝撃的に人生を終えてしまう。
そんな流れだったように思う。
その時クリアリングした感情は、たしか「自分が許せない」だった。深かった。まだ細胞にはそんな感情記憶が残っているのかもしれない。もはや、今世自分がどう行動してきたか?は問題ではない。「現実で何が起きているか」が「意識の内奥で何を信じているか」の答なのだ。
なら、これからのルールはこうするのはどうだろう。
わたしが自分らしくのびのび生きて、やりたいことをやっていると、創造の光がほとばしる。
喜びと笑顔、そして関わる全ての人に豊かさあふれる世界が創造される。
魂は、喜んでいるように感じる。
秘密の部屋
ずっとわたしの意識の奥にあった開かずの扉。
それが今、時々かすかに開こうとしているのを感じる。
これまでブログを書くことはわたしにとって自己表現だった。それゆえ、以前それを「魂のアトリエ」と表現したことがあったように思う。
アトリエは作品を展示する場所であり、そこにはわたしの体験や思いが形になったものだけが展示されている。そして、その場所は基本的に立ち入り自由だった。
ところが、新しいわたしが求めている形は少し違うように思う。
このエネルギーはまるで、自分だけの書斎にある秘密のノートを綴っているかのようだ。そこにはこれまでよりより高密度の創造の叡智がつまっている。
そんなものを公開してしまって大丈夫なのだろうか?と思うと、どうも基本的に閲覧は自由ではないらしい。
それは、限られた者だけが立入れる場所にある、鍵のかかったノートのようなイメージだ(最近やたらそういうビジョンを受けとる)。
もはやこれまでのようにわたし「が」何かを説明しようというフィルターが入らないので、自分自身の高密度なメモ帳をブログで公開するような感じなのだと思う。
つまり、わかる人にしかわからないブログになる。
それが一体「何を意味しているのか?」は、読み手が心に響いた文字を自分自身の魂で解読していくことになるらしい。
実際に制限されるのは閲覧という「行為」ではない。
本当に鍵がかかっているのは場所ではなく、その人の魂だからだ。
内側に鍵がかかっている=理解不能=閲覧しなくなる。「閲覧自由ではない」というのは、そういうことらしい。
もっとも本来叡智を降ろしたり伝えたりする役というのはそういうものらしく、わかる人にしかわからない言葉で書かれることが通例らしい。
それは、鍵をかけているのは自分自身であり、人には誰でも、その扉を開けたいと思う時があるため、その時が理解すべきタイミングということらしい。
しかしながら、これまでわたしには「理解してもらいたい」というエゴが残っていたので、それができなかった。
この魂にはこれまで何度かそういう役をやってきた人生があって「わかってもらいたい」しかしまた同時に「どうせわかってはもらえない」そんな何世紀かの葛藤が色濃く残っていたからだ。それは魂のカルマ(=やり残したこと)の1つであり、この人生で再び何かを語り始めた理由なのかもしれない。
ブログは新しくなるのだろうか。
それとも、別の形をとるようになるのだろうか。わたしはまだ、自分自身を理解しきれていない。