もう一度、はじめから

参院選の前日、テレビで各党首の演説を見ていて感じたことがあります。

それは「今はもうどの党を選ぶとかそういう時ではなくて、1つの大きなビジョンのために、垣根を超えて協力しあっていかなくてはならない時なのかもしれない」ということでした。

何が正しいのか、それはおかれた立場によって違うものであり、究極的にはわからないものです。
だから選ぶとしたら今、わたしが愛なら何をするのか。それだけであり、そうすると同じように愛から発信している人がわかりますから、その人を選ぶことはできます。

でも、それじゃ何か足りない気がする、と。

この国を良くしたいという気持ちが同じだったとしても、1人でできることは限られています。そして今は、党という枠組みや主義主張が、かえって本当の目的のために一つになっていく弊害になっているような...。
わかれれば論争することとなり、目の前の相手を打ち負かすことに夢中になっているうちにもっと大きな敵に足元をすくわれる。そんな感覚がしていたのですね。

同時に、同じビジョンのもと1つになっていくには今の政治の規模は大きすぎる、とも感じていました。
主義主張の異なる相手とどこまで1つになっていけるか。そこは器の大きさの問われるところであり、わたしたちは結局自分の器以上のことはできません。何事も、楽しくなければつづきませんから。
平和を願い、社会的にワンネス(=1つになっていくこと)を求めるなら、まずは身近な相手とどこまでわかりあえるか、全てはそこからなのでは、とも感じていました。
 
森のオーケストラのビジョンを思い出して以来、わたしの内側ではこんな対話が起こっていました。

🤔「オーケストラかぁ..。そんなことできるのかなぁ?」

😎「お前の持っているもので、みんなに提供できるものはなんだ?」

🤔「みんなに提供できるもの...。うーん、ビジョン、勇気、情熱、かな?」

😎「十分だ。いいか?お前の持っていないものは全部仲間が提供してくれる。だからお前は、自分の持っているものを提供することに集中して、あとはみんなに協力を頼めば良いんだ

🤔「わたしはこれしか持ってません。でも、これをやりたいのでどうか協力してください!..ってこと?」

😎「そうだ。ビジョンには人を1つにする力があり、誰だって何か1つはみんなに提供できるものを持っている(見出そうとすれば必ずそれはある)。お前はある意味全てを失って、最後に自分に残されたものが何なのか?を体験的に学んだ」

😶「そうだね。わたし、本当に何もかも失ったんだなって、最近になってやっと受け入れられた感じがするよ。今日も平和に生きられて、沢山のものを与えられてるなぁ、って感じる一方、かつて自分の力で手に入れたと思ったものは全部失ったんだなって...」

😎「それは、自力で何も手に入れようとしなくなった時、全てが手に入る仕組みになっているからな。それを学んでる途中なんだ」

😶「そっか〜...。確かに、ある意味わたしにとって一番手放せなかったものはお金のコントロールだったかもしれないね。わたしの人生で、お金ほど自分でなんとかしなくちゃ!と思っていたものは他にないよ」

😎「できないことはできなくていいこと。今世その役をやるために生まれてきたわけじゃないから、あえてそうなっている、ってお前講座で云ってなかったか?」

😶「云ってたような気がするよ」

😎「分離した自分、つまり他人と協力し合うために、人にはあえて「ない」ものが授けられている。いや、本当は、最初から全部自分の中に「ある」んだが、自らの完全性を思い出すために、あえて仲間と協力し合う人生を選んでいる魂もいるんだ。そっちの方が格段に楽しいし、効率もいいからな。気づいてたか?1人で全てを完結しているうちは、その輪は決して大きく広がらないことに」

😶「つまり、大きなビジョンのために真の仲間と出会い1つになっていくには、今の自分自身に素直であること(自分を偽らず、できること、できないことを素直にカミングアウトする誠実な愛)が大切なんだね」

😎「できるな?」

😶「うん、意識する。もう一度、はじめから、真っさらなわたしでスタートするよ」


人生最後のねじれは、自分に素直になることで癒していきたいと思います。