才能と研鑽

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おそらく「才能ある道で研鑽を積む」というのは本来はごく自然なことで、誰もが魂のキャリアを歩み始めるこれからは、ごく当たり前のことになっていくのでしょう。
もし今やっていらっしゃることがそうでなかったとしても、今後は自然とその道に導かれていくのではないでしょうか。なぜならそれが、もっとも効率の良いことだからです。
 
わたしたちはこれまで長く無価値観を使ってきましたので、できないことをできるようになることを、もとから自然とできることを研鑽するよりも「より優れたこと」として捉える傾向がありました。
しかし無価値観を手放すようになると、自分の価値を何者かに証明する必要性がぐっと減ってきますので、何もわざわざ難しい道を選ぶことが少なくなってきます。

生まれ持った才能があるのは、それが魂の青写真にとって必要な装備だったから。本当に必要なものは、ちゃんと準備して生まれてきたのです。ですから本来は、それを使うことが一番自然で効率の良いことなのかもしれません。

そういえば、わたしも昔「教えるのが上手」と家族にほめられたことがあったように思います。教師になる道はなんとなく想像できましたし、なにかと不器用なわたしにとってそれが一番楽そうな道にも思えました。教師が楽とかそういうことではなく、自然とできそうな気がしたからです。

しかし無価値観をバリバリ使って生きてきましたので、「楽そうな道」なんて選んでいたら「自分がダメになってしまうに違いない」「もっと成長するには違う道が良い」ということで、営業職を選びました。うむ、我ながらだいぶ自己証明のために頑張ってきたと思います。

本当に予定してきた道においては、自らを「才能がある」と感じることは少ないかもしれません。実際、わたしも多少褒められたことはおぼえていますが、自分に対して「教える才能があるぞ」と感じたことはありません。
なぜかというと、それをやっている時は自然と内向き意識になってしまうので、人と比べることがほぼないのです。
外向き意識でやっていることは比べますよ。それは誰でも一緒です。他人の目線が気になるし、他人にどう評価されるかが気になる。自分が頑張っているからです。
しかし、自分本来の道を本来の自分自身で歩んでいる時というのは、大概それを忘れてしまうものです。世界に私だけしかいない意識から、ふと戻ってくる時に我に返ったりするのです。(ただその意識状態を保つことは、ある意味1つの研鑽でしょう)

他人と比較しない道、というのは比較基準がないので才能の自覚は生まれにくいですし、何より自己証明のためにやっているわけではありませんから、才能の有無はあまり気になりません。才能があったとして、それは研鑽を積まない理由にはならないし、なかったとしても、やりたければ自然とやってしまうものではないでしょうか。自然とやっている=いつのまにか仕事でもやっている、というパターンですね。

逆に趣味でやっていた音楽については、興味深いエピソードがあります。
初めてネイタルチャートを見てもらった時「月が獅子座だから、歌とかダンスとか自分を表現できることをやるといいよ」と云われて「ああ、それなら音楽をやってますね」と答えた後「まあ、趣味ですけど..」と落胆気味に申し添えたことがありました。
当時わたしは自分自身を見失っていましたので、正直「そんなの、いくらやっても仕事にはならないよなぁ」「わたしは、人生の時間を無駄にしてきたのでは」という、やや投げやりな気持ちだったのです。ハハハ(笑)
そしたら「いや〜趣味でいいと思いますよ。もし本業だったら、世界一のオペラ歌手にならないと〜」「何もそんな苦しい道をわざわざ選ぶ必要はないでしょ」と先生は達観されたような感じでした。当時はわかりませんでしたが、趣味でやっているのは予定通りで、仮にそうでなかった場合、ネイタルチャートで予定してきた魂の学びを完了するのはずっと大変になるよ、と示唆されていたのだと思います。
 
「もっと才能があったら」「子供の頃違う道を選んでいたら」「わたしの人生は、変わっていたのだろうか?」そんな風に感じたことはありますか?
 
今でこそ感じるものですが、人生は思っている以上に魂の予定通りなのだと思います。まあ、深層意識レベルで同意していないことは、起こってきませんからね。
ただし、本当は才能があっても、無価値観ゆえにそれを自覚できない、使いこなせていないケースもあるので、それは気をつけてくださいね。


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