全て意味があって起こっているんだよ

先日、ドイツの友人が日本に遊びに来たので、仕事を早退して職場近くのホテルに宿泊し色んな話をしました。
いつもは緑の多い空気のおいしい場所で会うのが常なのですが、ドイツはそういう所いっぱいありますから。たまには一緒に都会生活を楽しむのも良いかな〜と思ったのです。

そうしたら、本当に色んな情報が自分の中から降りてきまして。

友人と話していたら自然と「ああ、そうかそれはこういうことなんだ」とか「つまりそれは、こういうことみたいですね」とか、直感的に叡智を受け取りながら話す昔のわたしが出てきたんですね。

その時気がついたんです。

あ、そうか。

この情報は今、受け取り手(=友人)の準備ができているから自然と降りてきているけれど、必要がない時は、チャネリングってできないんだ。

つまり、普段わたしがチャネリングできないのは、その必要がないからなんだ。

ということに。

以前も書いたかもしれませんが、実は日本に戻ってきてから、わたしほとんどチャネリングができなくなってしまったんです。直感的理解力がとじてしまったというのでしょうか。
なので、昔、自分がやっていたことを見ると、今はできないな〜と感じることがしばしば。
それが活動を休止した理由の1つでもあります。

できないことを嘆いていても仕方がないので、とりあえず今の自分を受け入れ、派遣社員として新しいキャリアをスタートしたのが昨年。新しい人生は、不思議とそれなりに気に入っています。

ただなぜ、かつては自然とできていたことが、突然できなくなってしまったのか?
その理由をわたしは、まだ体感として理解していなかった
のです。

それが今回はじめて理解できたんですね。

出来ない時は、やらなくていい時なんだ。
やらなくていいから(必要がないから)、できなくなっていたんだ!

と。

どうしてチャネリングする必要がなくなってしまったのか?
理由の1つは、おそらく、今のステージが他力を頼ることを思い出すレッスンだったから。


実はチャネリングできるようになると、人に聞くことがなくなるのです。
毎瞬、毎瞬、今どうすべきかわかる、といいますか、知りたいと思ったことは、知りたいと思った瞬間に降りてくる。(降りてこない時は、本当に知りたいとは思っていない時)

もしもわたしが今「人に頼る」という経験をやりきるための章(ストーリー)を歩んでいるのだとしたら、チャネリングできるとちょっと困りますね。
なんていうのかな、それはこの章(ストーリー)における標準装備ではないのです。その力を持っていると、この物語は体験できない仕様になっているから。


今回すごく思ったのが

能力って、わたしのものではないんだ。

ということ。

ゲームの主人公の標準装備みたいなものであり、歩む道が変わると装備が変わるように、突然何かができるようになったり、できなくなったりする、のかもしれません。
(そもそもチャネリング自体、努力して身につけた力ではなく、ある時期から自然と開花していった力だったように思います)

もちろん、与えられた能力(装備)をお手入れしたり研鑽することは大切で、それはこの世界でわたしたちがやるべきこと。なのですが。その元々の力=才能は、やはり与えられたものであるということです。

わたしの場合、チャネリングの力は完全に失われてしまったというより、時期的にバイアスがかかっているだけのようです。
この章が終わるまでは、この装備で頑張りますかにゃ。
(というのも、別の人生で預言者とかやってた時は、役目を降りて普通の人生を歩みたい〜とか思っていたようなので、ある意味これもその望みを叶えているのだと思います)

全て意味があって起こっているのだから、もっともっと今を信頼していいんだ、と感じた出来事でした。