役割を降りるとは

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「役割を降りる」
「着ている役を着脱可能な意識になる」

とはどういうことでしょうか。

これは、個であると同時に全てである意識に目覚めていくこと、自分自身の視点からではなく、他者の視点でも物事を捉えられるようになることを意味しています。

モグタたたきを想像してみてください。
あなたというモグラからは物事がAの形で見えたとします。ところが、隣の穴のモグラさんはAという文字を横から見ていてIに見えているかもしれません。

他者はどの視座から物事を見つめて理解しているのか。
完全にその人の視座になりきることができるようになった時、あなたは「あなた」という役をおりていくことになります。目覚めです。

この時、すべての人は必然性があってそこに存在し、その役を担っていたことに気がつきます。

たとえば、わたしは昔から頑張り屋さんの役でした。
努力を重ねて結果を勝ち取った(と感じるような現実を創造した)ことが何度かあったように思います。多くの場合、その時周りの人は無条件に賞賛してくれました。

個人意識で生きている場合、誰しも努力は報われてほしいと願っています。
同時に、わたしたちの多くは人生で何度か努力が報われない体験もしています。
そうすると、人生の矛盾を再度肯定するために「努力は報われてほしい」という無意識下の願いも同時に強くなっていきます。
 
そして「努力は報われるものである」「そうであってほしい」という信念や願いが強力であればあるほど、それを体現して「やっぱりそうなんだ!」と感じさせてくれる人が、そのグループで少なくとも1人は必要になってくるのです。
これがわたたしたちの現実創造だったのですね。
わたしは好んでその役を担い、それは自分自身の願いであったと同時に、周囲の人々の無意識下の願いや信念を反映したものだったことに気がついていくのです。

「すべての人は理由があってそこに存在している」
「存在していることに意味がある」

誰しも必然性があってそこに存在し、その役をやっている、と観じてみるとこれはとても明快です。
あなたの隣の人、職場の困った人、あるいはあなた自身も、みんな必然性があってそこに存在しているのであって、それは我々集合意識の無意識下の同意がないと不可能なことなのです。

人間関係においては、なぜ、自分はこの役を担っているのか?あるいは、なぜ、その役を相手にお願いしているのか?と観じてみても良いでしょう。