全てが贈り物

今この瞬間の全てが贈り物。

贈り物を受け取るには、今ここ(現実)を贈り物として見てみることから。

いらないならいらないと云っていいし、受けとりにくい形のものがあったら形を変えてもいい。全ては許されている。
 
でもその前に、今ここを贈り物として見ていなければ、仮にそれが贈り物であったとしても気がつくことはできない。それが「受け取ろうとしていない」ということらしい。

今ここを "贈り物" として見つめる意識が、全ての出来事から素晴らしい側面(ギフトの側面)を引き出し始める。そうして初めて本当の意味でそれに気がつき、わたしたちは受け取ることができるようだ。
 
「今ここ」というプレゼントの送り主は魂、つまり宇宙意識だ。

宇宙からのプレゼントなんだから、お返しなんて考えなくていいし、受け取ることに遠慮なんてしなくていい。受け取りっぱなし、もらいっぱなしでOK。どの道わたしたちが両手で抱えきれるプレゼントはたかがしれている。
そして抱えきれなくなったら、その喜びは自然と周囲にあふれ出すのだ。
 
興味深いことに「受け取ったらお返ししなくては」なんて意識が残っていると、素敵なプレゼントが人を通してやってきたなら、思わずその人にお返ししたくなってしまうし、気にくわないプレゼント(現実)がやってきた時には、今度は現実に悪態をつきたくなってしまう。
良いものも、悪いものも、お返ししたくなってしまう。それが人間意識だ。

でも本当は宇宙は喜びを循環させたいだけなのかもしれないし、ちゃんと受け取ってもらえなかった現実(プレゼント)については、今度は受け取ってもらえるまで、何度も送られてくることがある。
 
だからやっぱり、受け取ることだけに集中することがスムーズだ。
やってきたら何事も "贈り物" として見てみる。わたしはそれだけで、随分物事の見方や対応の仕方が変わってしまうことに気がついた。
  
何より現実を贈り物として見る時、わたしは現実の外にいて、プレゼントの中に入ろうとはしなくなるのだ。(そりゃあそうだろう)
 
そして、今回日本に帰ってきた出来事を、わたしは "贈り物" として見てはいなかった=本当の意味で受け取っていなかったのかもしれない。

それは昨日書いた通り、わたしの内のかつての故郷をなつかしむ気持ちがそうさせていたのかもしれないし、だとしたらわたしは、かつての誰かの願いを満たすためにドイツに恋い焦がれていたのかもしれない。

本当の意味で受け取ることができた時は、一体、どんな景色が見えてくるのだろう。