自分自身を引き受ける

目覚めていくことは、これまで「人形A」なる存在だと思っていた自分が、実は自分という「人形A」と隣の人物「人形B」の両方を演じていた『人形師』なる存在だったと気がつく感覚に似ている。

いや、確かにわたしは人形Aなのだが、わたしの内奥の存在は人形師なのだ。

あるいはよくいわれるように、自分は人差し指だと思っていたのに、手のひらそのものだったという感覚なのかもしれない。

ただそのプロセスで起こることは色々あって、例えば人差し指が実は隣の中指と共依存の関係(自分と他人が深いところでごっちゃになっているような関係性)だった場合、自分という存在を新たに立ち上げるプロセス(わたしは人差し指であって、中指とは違う存在である、と自覚するプロセス)が起こってくる。

そして中指と分離した後、人差し指から実は手のひらそのものであったと気がつくプロセスでは、今度は自分がどんどんなくなっていく。自分は確かに人差し指なのだが、今度は人差し指であったと同時に、中指であったことに気がついていくのだ。

だからプロセスをゴールにすると混乱する。
しかし最終的には自分でありながら、自分がない状態に目覚めていくのだ。
あなたは人差し指でありながら手のひらであり、人形Aでありながら人形師なのだ。

そしてある日、人差し指が親指と分離して「自分は人差し指であると同時に、手のひらなのかもしれない」などと気がつき始めた後も、実は反対側では中指としっかり共依存しているなんてこともある。
だからこの『自分を立ち上げ、なくしていくプロセス』は永遠につづくのかもしれない。

人形師の視点においてわたしは全てである。全ての人(人形)であり全ての量子なのだ。火であり水であり風であり土だ。わたしの意図は全ての意図であり、小さな自分の正しさはささいなことである。全てはあるがままでゆるされており、わたしという存在の本質は光と闇、正しさと間違いどちらでもあるからだ。

しかし同時にわたしは個という存在である。
それどころか、わたしという個を通してしか全体につながることはできない。それは、自分という存在を通してしか今ここに入っていけないからだ。

オーケストラでいうなら、自分の音を通して『今ここ』に入っていった結果、そこに全ての奏者の音がある。自分の向こうに広がるパノラマの世界。いつも自分自身が扉であり、自分という存在から外に乗り出して全体を認識することはできないのだ。

先日小説を書いていた時のこと、こんなくだりが降りてきた。

「愚か者め。自分の思いを自分で引き受けるまでこれは終わらないのだ。全てを引き受け己が全てを許せるようになるまで」

これは劇中、主人公を助けようとしたその友人の行いに対して、ある人物から放たれる言葉である。
書き留めてから「ああ、これはカルマのことを云っている」と理解した。

「愚か者め。自分の思いを自分で引き受けるまでこれは終わらないのだ」

=この世で起こっていることの全てが自分の思いが具現化したものであるということを認めなければ、何も始まらない。
お前がこの人物を物理次元の現象から助けたところで、それを引き起こした当人の内なる思いを解消しなければ、いずれまた同じことが起こってくる。これは自分で引き受けるまで終わらないのだ。

「全てを引き受け己が全てを許せるようになるまで」
=自分の抱いた思い全てを受けとめ、その全てを手放せるようになるまで。

我々は、自分に対して心底許せないとか、大したことないやつだとか、あるいは無力感ゆえに消えてしまいたいだとか、よく考えれば本当にとんでもないことを思ってきたものである。
そして、その自分の思いを自分で引き受けている。

もうそろそろ良いのではないだろうか。

お前がこの人物を物理次元の現象から助けたところで、それを引き起こした当人の内なる思いを解消しなければ、いずれまた同じことが起こってくる。これは自分で引き受けるまで終わらないのだ。

だとしたらわたしはとんでもない思い違いをしていたものである。人助けと称して魂の内なる学び(=カルマの解消)を邪魔していたこともあるかもしれない。

わたしと同様、全ての人は魂の旅の途中なのだ。そのことを忘れてはならない。