もっと自分を丁寧に表現しよう

6月、仕事を探さないよう魂から云われていたわたしは、1ヶ月ほど就職活動をお休みしていました。今はそういう時期なのだろう、と。

後になって実感が湧いて来たのですが、本当は休みたい自分がいたですよね。
この活動も、新しい仕事も、何かに向かって頑張りつづけること自体を終えたいという気持ちがあって「ああ、そうか、今は休むことに集中すべき時なのだ」ということが、後日やっとわかってきたのでした。

どんだけ休めないんだ!わたし(笑)

人生で意識的に休暇をとったのは4回目くらいでしょうか。
1回目はドイツに来て1年ほど、2回目はドイツで失業保険をもらっていた時、3回目は独立してから起業支援金を受け取るまで、わたしの人生では意図的に働かず、休んだり自分を整理することを目的とした期間がありました。

当時は「人生の夏休みです」などと笑っていましたが、要はそのくらい、わたしの魂は本当に休むことが苦手なのです。いつも何か目標に向かっていないと気が済まない。
なので、あえて働かない期間を設けることで、意図的に自分のバランスをとろうとしていたのだと思います。
4回目の休みを迎えて、少しは休み上手になるといいのですけどね。いい加減、学習しなければ。

そしてもう1つ気がついたことは、わたしはこれまでどこかで置いてけぼりにして来た「用意周到で慎重な自分自身」の性質を、意識的に手放そうとしている、ということでした。

人間には様々な性質があり、その全てを表現できない時もあるので、わたしたちは大抵自己矛盾を抱えて生きています。

本当は、傷つきやすいけど強くありたい自分。
甘えたいんだけど、大人になりたい自分。
休みたいんだけど、無理して目標達成したい自分。
そして、本当は心配性で慎重なんだけど、時に大胆に勝負したい自分。などなど。
 
そうしたことに無意識なうちは、全ての自分を等しく表現することが難しいので、だいたいどちらか一面性だけを表現することになり、表現されなかった自分は、いわゆる「おいてけぼりにした自分」「切り捨てられた自分」として人生にバグをつくりやすい、というのでしょうか。

切り捨てられた自分自身は、あまりに抑圧が強いと、周囲の人間関係にそれが投影されてくるケースもありますが、当人が自らそれをやりきることで卒業していこう、手放していこう、という場合には、それにふさわしい現実を自らつくりだすこともあります。

つまり、思いきり甘えたり、休める環境を自分自身に用意したり、わたしって本当は傷つきやすかったんだわ、慎重だったんだわ、と思い出して、それを意識的に受け入れるための現実を用意したりするのですね。
(そのことに気がつくと、今の現実は、自分の本当の望みを叶えるために存在しているんだわ、と感じるわけですが、気付かず自分の抑圧された一面性を否定したままだと、現実が思い通りにならないと感じるように思います)
 
わたしのケースだと、実は大胆で勝負強い一面の裏に、非常に慎重で用意周到な自分が存在していたりするのですが、長らく後者の性質は封印していたように思います。

先日大学時代の友人に会って「そういえば昔は、練習に練習を重ねて本番で演奏していたな〜」とか「とにかく慎重で、目標を形にするためには努力を惜しまなかったよな」というかつての自分自身を思い出したくらいですから。

人生もっと簡単でいいんだ!と思えるようになってからも、そういうかつての自分自身はいなくなったわけではなく、単に抑圧していただけだったんだな〜と感じました。

慎重で用意周到な自分自身も「この世界で表現しやり終えていく」必要があったので、就職活動では、なんだか自分の希望とは違う新しい仕事を勧められるケースが多かった(そういう現実を自ら創っていた)のですね。

自分って本当に、奥が深いな〜と感じるこの頃です。