情熱の密度

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ギフトとは、自分がお金を払ってでもやりたいくらい大きな喜びのこと。
 
魂意識曰く、そうでないものはもう情熱の密度が低いだそうです。
ちょっと前まではそれでも現実化できたけど、2021年はもう無理。「その程度のやりたいことなら、やめとけ」だって😂
 
情熱というのは愛の形のひとつ。愛の密度が低いと形にならない。そして究極の愛の形を見つけるには、一度エゴ意識を外さないといけないんですよね。
例えば、わたしの場合「人の役に立つこと」に自然とフォーカスがいってしまう傾向がありますが、人によっては「結果や数字につながりそうなこと」「肩書きやステータスになりそうなこと」など、知らぬ間にフォーカスしてしまうポイントがあると思うのです。
 
それらは、魂の創造性をより効果的にこの物理次元で形にしていくためにエゴに備わったフォーカスポイントなのですが、問題は形にすることを意識するあまり、知らぬ間にそこでフィルターがかかってしまうケース。
「ドイツツアーを主宰して自分が感動したい」→「それで?それだけだと人の役に立たないよね?」みたいな。自分の思う価値を出そうとすることで、それっぽく形を変えてしまい、自ら魂の情熱の密度を落としてしまう。生まれたものを生まれたままに表現できない。
 
そんな風にして、知らぬ間に魂の喜びの本質からズレていると、エネルギーが回らない=お金が回らなくなります。人生でお金の心配を全くしていなかった時って、間違いなく魂の望む方角(内なる情熱の流れ)に邁進していた時だったと思うのです。逆説的ですが、お金を払ってでもやりたいこと(喜びの本質)を見失ってしまうと、エネルギーの循環も小さくなってしまうのでしょう。
 
確かにわたしも、先日書き出したギフトの中で一番お金を使ってきたのは③チェロを弾くことでしたが、当時お金の心配をしていたか?と云われると全くしていなかったことに気がつきました。家は別に裕福だったわけではなく、オーケストラもそんなにお金のかかる趣味はやめなさい、といわれていましたが、楽器は貯金を切り崩して買って、海外演奏旅行はなぜか反対していたはずの母が費用を出してくれました。
 
「今思うとあれは本当にラッキーだったよね」と以前は感じていたものですが、今はちょっと違った見方をするようになったんです。つまり「あの時は、魂の望んでる方角だったから、道が敷かれたのでは?」ということ。人生って、どんなにがんばってもどうにもならない時はあります。そういう時は、やっぱり魂の本音と何かがズレていた時だったなぁと。
 
お金は現実の一部。現実に夢中になってると「お金があったら〇〇しよう」という思考にはまりがちですが、本来は先に「魂の望む方角やビジョン」つまり「本当にやりたいこと」が存在し、そのために必要なことはお金も含めて全て導かれていく、そういうサイクルなんですよね。